新内節とは
新内節とは
新内の歴史は、先ず現在は失われた浄瑠璃の「豊後節」の説明をしなくてはなりません。
上方の浄瑠璃は「義太夫節」、京都の浄瑠璃は「一中節」が語られていた。
その一中節の始祖である都一中の門人の都国太夫半中が、宮古路豊後と改名して語り始めた浄瑠璃が豊後節である。
享保年間の頃、京都を離れ名古屋に行き、その後江戸へ下り大劇場にも進出し大当たりを博した。
名前も掾号を受領し豊後掾と改める。
その豊後節は江戸中の音曲界の人気を集め豊後節ブームを起こす。
その大流行は種々なる問題を引き起こすのである。
その頃流行った心中や駆け落ちは豊後節によるものであるとか、風紀を乱すなどと問題視され豊後節は一切禁止との弾圧を受けた。
また以前よりあった他流の僻みやっかみも強く、反対運動も相まって当時の世相の原因はすべて豊後節であると言われた。
その上北町奉行の娘が出奔する事件が起こり、豊後節は一切禁止との弾圧を受けた。
宮古路豊後掾は江戸から姿を消す。
その門下の中の一人宮古路文字太夫は改名して常磐津文字太夫を名乗り常磐津節の始祖となり、その門弟の小文字太夫は富本豊前掾を名乗り一派を起し富本節の始祖。
富本延寿斎の門人であった斎宮太夫は清元延寿太夫と改めて清元節の始祖となる。
宮古路豊後掾の門人の加賀太夫は富士松薩摩掾を名乗る。
その門下の敦賀太夫が鶴賀若狭掾と改名し鶴賀節の始祖である。
代表曲に「蘭蝶」「明烏夢泡雪」「尾上伊太八」他多数。
二代目家元の鶴吉は「関取千両幟」等の多くの義太夫曲から移曲作品を遺す。
当初鶴賀節と言われたが、その門下に鶴賀新内という語り手が現れ、鼻に抜ける美声が人気を呼び、鶴賀節がいつしか新内節と呼ばれるようになった。
この鶴賀新内が「新内」の名の元となった。
二代目家元の鶴賀鶴吉門下の五代目鶴賀加賀八太夫は問題を起こし、鶴賀を追われて、天保年間頃に途絶えていた富士松性を名乗り富士松加賀太夫となる。
後に富士松魯中と改名。新内の中興の祖と言われる。
「東海道中膝栗毛」「明烏後正夢」等多数作曲、また多くの義太夫からの移曲を残す。
「鶴賀」「富士松」が新内の二大流派の元である。
その後「花園」「岡本」「新内」などの一派が誕生した。
(岩沙慎一、吉川英史両氏の文献参考)